弥助信長に仕えた黒人武士!ハリウッド映画化公開日は?キャストについても

映画

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が放送されていますね。明智光秀を題材にした戦国ドラマです。

ちょうどその時代に、信長に仕えたアフリカ出身の黒人武士、弥助も同じ日本を生きています。本能寺の変で二人は交わり、そして離れていきます。

そんな弥助を題材にハリウッドで映画化されると、何年か前からいわれています。いつが公開日なのでしょうか?そしてキャストは誰なのでしょう。弥助はどんな人生をいきたのでしょうか?この記事で案内させていただきます。

アフリカ出身の黒人武士弥助がハリウッドで映画化!公開日とキャストも

まだ公開日は決まっていません。

アメリカのエンターテイメント誌「ヴァラエティ」によると、
マーベル・コミックの『ブラック・パンサー』の実写版で主演のチャドウィック・ボーズマンが、主人公の弥助役を演じる予定だと2019年5月に報じられました。

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#Yasuke [Link in bio]

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ハリウッドでの弥助の映画化は、何年も前から報じられていますが、まだ具体的な情報はでてきていません。

下の写真は日本大学准教授のトーマス・ロックリー氏の著書 表紙
弥助を9年間研究しています。

弥助はどんな人物?時代背景も!

弥助に関する史料は少なく、
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡、
太田牛一『信長公記』、『松平家忠日記』、
ジャン・クラッセ『日本西教史』、
フランソワ・ソリエ『日本教会史』などで、断片的に書かれているだけです。
ヤスケの正確な背景は謎のままです。

弥助を9年間研究しているトーマス・ロックリー氏さんの推測をもとに案内させていただくと、

ヤスケはアフリカの出身で、子供の頃にアラブ人かインド人の奴隷商人によって家族と離され、アラブ諸国およびインド洋全域で人身売買されて奴隷として働いていました。

そして、子供兵士として訓練されて、インドのグジャラートとゴアで戦った経験もあります。(インドのハブシだったのではと推測されている)
※ハブシ・・・北東アフリカの軍事奴隷を指す言葉

当時、ゴアはインドに住むポルトガル人にとってアフリカの奴隷貿易の盛んな都市でした。軍事の中心地でもあり、宣教の場にもなっていました。

そこでヤスケは、アジアで最も強力なイエズス会の宣教師であるアレッサンドロヴァリニャーノに出会い、従者兼ボディーガードになったのではと推測されています。

ヤスケと宣教師のアレッサンドロヴァリニャーノとその側近は、1579年に長崎の口の港、九州の南の島に船で到着しました。本能寺の変の3年前の出来事です。
ポルトガル、モザンビーク、インド、マラヤ、マカオなどの国を経由してローマから6年間旅行したヴァリニャーノは、何千人もの日本人をキリスト教に改宗させる目的がありました。
日本人はとくにヤスケの外見に驚いたようです。ヤスケは一行の中でずば抜けて背が高く、屈強な肉体を持ち、肌の色は墨を塗ったかのような漆黒。坊主頭を日差しから守るためか白い布をターバンのように巻き、槍を手にしていたと思われます。年齢は20歳代前半。
ヤスケは来日してから2年間を、主に九州で過ごしました。
日本を去る日が近づいている宣教師ヴァリニャーノは、その前に日本最大の実力者である織田信長に拝謁して、イエズス会の布教活動の庇護を確かなものにしておきたかったようです。そのため、宣教師のヴァリニャーノは1581年、使節として都を訪問することを決意します。
堺に到着した一行は、船から馬に乗り換え、紋章旗や十字架を掲げながら京を目指しました。そんな一行を物珍しがり、群衆が取り囲みます。特に「黒い大男」弥助の姿は、多くの日本人を驚かせました。
一行は摂津(現、大阪府)高槻(たかつき)城主でキリシタン大名である高山右近(たかやまうこん)の歓待を受けました。のちに信仰を守って国外追放となり、フィリピンのマニラで生涯を閉じた右近ですが、このときは織田信長の有力な配下でした。
右近は、ヴァリニャーノらが速やかに信長に拝謁できるように祈ったといいます。
1581年3月27日、ついに織田信長と面会した宣教師ヴァリニャーノ一行。
信長は弥助の黒い肌にひどく驚き、墨がついているとおもいこみ家臣に命じて、洗わせたといいます。
ヴァリニャーノの説明を受けてもヤスケを理解するのが難しかった信長でしたが、ヤスケを気に入りヴァリニャーノから譲ってもらうことになりました。
信長はヤスケを小姓(武将や大名の側で雑用や護衛の任に就いた武士)として、そばにおいたといいます。
ヤスケは私宅と腰刀を与えられ、武士と同じ立場になりました。
イエズス会の報告によると、信長は将来的にはヤスケに城を与えて、家臣にするつもりだったようです。
1582年6月21日、「本能寺の変」が起こった際、信長とともにヤスケも戦いましたが、織田信忠へこの事態を知らせろと信長から最後の命令を受けて、本能寺を脱出します。そして信忠へ変事を伝えました。

その後ヤスケは、二条御所で明智軍と戦いますが、捕まりました。
光秀は「動物同然の奴隷で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑せず、「インドの聖堂に置け」との指示で南蛮寺(キリスト教の教会)に送られ一命を取り留めたといいます。その後の消息は不明となっています。

 

まとめ

この光秀の発言については、黒人に対する差別意識の表れだったとする説と、弥助に情けをかけて命を助けるための方便だったとする説がありますが、真相は定かではありません。

自分の努力次第で人生をかえることができる私たちは恵まれていますね。
時にはつらいこともありますが、せっかく与えられた人生、一生懸命いきなくてはいけませんね。
記事を読んでいただきありがとうございました。

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